各人が自己脱洗脳できれば、例えば国によってメディアが利用されたり、教育が画一化されたり、あるいは一つの宗教を強く信じるようになったとしても、国民の大半が個々の事柄に対して、同じ判断を下すことは避けられるはずである。その結果、戦争も回避できるはずである。私は本気でそう思っている。
以上を、苫米地 英人 (著)『苫米地英人コレクション1 洗脳護身術』15ページより引用させていただきました。
苫米地氏の洗脳の定義では自分の為になる洗脳は洗脳とは呼ばない。第三者の利益になる洗脳のみを洗脳と定義している。
しかし私の洗脳の定義は、自分の本心とは違うことを他人に植え付けられた価値観で行うこととしている。なので世の中のほとんどすべては洗脳だと考えている。
すべては洗脳であり、そして洗脳には良い洗脳と悪い洗脳がある。
良い洗脳とは自分と他人の為になる洗脳で悪い洗脳とは特定の他人の為になる洗脳だ。
とここで引用された部分に戻るが、国民が第三者の利益になる洗脳を脱して多様性を得て一つの物事に猛進しなくなったら確かに戦争は回避できるかもしれない。しかし現状維持のままだ。
国民皆がバラバラの価値観を持ち戦争は回避出来てももし日本国という現状が悲惨なものであればその現状はそのまま続いていく。
果たしてそれでいいのだろうか?
みんなが幸せになる社会を目指すという共通の価値観は国民全体で持つべきだと思う。
その基本的価値観とは別に多様性のある価値観を個々が自由に持てばいい。
一つの物事に一丸となる洗脳と多様性を認める洗脳、この両方が同時に必要だと思う。
良い洗脳、自分とそして他人の為になる洗脳は、国民全員が持つべきだと思う。

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