北朝鮮や戦前の日本がいい例だ。朱子学や儒教的な善の概念が、誇張されて専制君主への帰依を善としていたことは記憶に新しい。
以上を、苫米地 英人 (著)『苫米地英人コレクション1 洗脳護身術』22ページより引用させていただきました。
悟りを開き煩悩から自由になった聖人であっても国家が定める法律に違反していれば悪人とみなされる。善とは何か、正しいとは何か、はその社会が決める。
ある社会では善であっても他の社会では悪かもしれない。
いえいえここでのテーマは、社会的善悪を為政者の支配の道具にすることであった。
いやそれも違うのかもしれない。
たとえば愛国心。
国を愛することは良いことなのか悪いことなのか。
国家は私たちに安全と安心を与えてくれるという意味では感謝すべきだが、もし国家が私物化されているのなら愛国心は国家の私物化という悪に加担することになる。
たとえば親孝行や年長者は敬いましょう。
親孝行は誰もが善だと思うでしょう。
私もそう思います。
でも親孝行は儒教の教えが色濃い。
親には従うべき、年長者には従うべき。
しかし世の中には悪い親も悪い年長者も存在する。
そういう悪い親や悪い年長者に従ってしまう場合もある。
愛国心と同じく親孝行も年長者を敬うことも、為政者にとって都合が良い場合がある。
十戒のような絶対的善悪と宗教の違いなどによる社会的善悪があるように思う。
人を殺すのは悪、他人のものを盗むのは悪、他人を騙すのは悪などは大抵の人が悪だと思うだろう。
しかし社会的善悪である税金を払わない悪とか法律を守らない悪となると微妙になってくる。
だって国家の成立が多くの人命を犠牲にしてあるいは人を騙し打ち負かしそれ以前の法を破り成り立っているのがほとんどだからだ。
散々人を殺してさらには当時の法を破り成立させた国家が、人を殺すのは悪だと言い、法は守るべきだという、それは微妙な善ではないか?
国家の本質は人の集まりに過ぎない。
そしてその人の集まりとは、支配する者と支配される者。
導く者と導かれる者だ。
国家は特定の方向性を持ち、ある程度意思が統合された人の集まり。
指導者が導くためには、支配者が支配するためには、統治の為に社会的な善悪が必要となってくる。
そしてその善悪を決めるのは当然、指導者や支配者ということになる。

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