最近たった一人のクレームで子供が遊ぶ公園が更地となる事件があった。
そういえば除夜の鐘がうるさいとのクレームで除夜の鐘が鳴らなくなる事件もあった。
これらに共通しているのは個人の力が強くなったということだと思う。
たった一人もしく少人数の意見ばかりが通る世の中になってしまった。
どうしてそうなったかというと新聞テレビと映画やドラマが特殊な個人とか特殊なマイノリティばかりに焦点を当てるからだ。
特殊なものや数少ないものばかりを新聞テレビと映画やドラマで目にするものだから特殊が一般化してしまい、特殊なものや数少ないものが当たり前なんだと多くの人が思い込むようになった。結果的に個人の力や少数派の力のみが異常に強くなり、同時にクレーマーの力も強くなった。
多数派は常に少数派への配慮が必要となった。
配慮という名の強制が当たり前になった。
個人や少数派の力が増せば相対的に国家権力は弱体化する。
国家権力が弱体化すれば当然民族ごちゃ混ぜにも有利に働く。
さらに私は影の政府がもしあるとすれば彼らはマイノリティすなわち少数派であるだろうと考えているので特殊で少数である影の政府を守るのにもこの個人の力が異常に強い現状が役に立つとみている。
新聞テレビと映画やドラマは密かにゴリ押しする。
新聞テレビと映画やドラマは人知れずゴリ押しする。
そのゴリ押しする内容は常に民族ごちゃ混ぜと個人の力の増大に寄与しているように私には見えるのだ。
私はひょっとして影の政府は人間というものに絶望しているのではないかとさえ思っている。
人間の歴史は戦争の歴史であった。愚かなのが人間である。
愚かな人間たちに任せていてはいつまでたっても戦争はなくならない。
そう影の政府は考えたのではないか?
戦争を無くすためには戦争を起こす主な主体である国家を弱体化すればいい。
戦争を無くすためには戦争の主な原因である民族や宗教をごちゃ混ぜにしてしまえばいい。
影の政府は新聞テレビと映画やドラマを総動員して地球から戦争を無くすための政策、民族ごちゃ混ぜと国家の弱体化を推し進めているのではないだろうか。
そして愚かな人間が相手なので実現のためにはその手段を選ばないのだろうと思う。
